「言ったことが通じないんです。『大丈夫です』と返事をして、違うことをする」
「ちゃんとやっています」
二人とも、本当にそう思っています。サボっているわけでも、ごまかしているわけでもありません。 にもかかわらず、結果は食い違う。ここには理由があります。
同じことは、日本語のクラスでも起きています。
宿題のやり方ひとつでも、言われたとおりにしない人が必ずいます。
ただ、宿題そのものはしてきます。やる気がないわけではありません。 宿題が出たことも、ちゃんと分かっています。 抜けているのは「やり方」のところだけです。
現場で起きていることも、これと同じだと思っています。
何が起きているのか
説明のために、ひとつ例を作ってみました。実際の現場でよくうかがう話を、 分かりやすい形にしたものです。
指示は「つぶして、ヒモでしばる」。 でき上がったのは「つぶさずに、ヒモでしばったもの」です。
ここで大事なのは、本人が手を抜いたのではない、ということです。 本人の中では、言われたとおりにやったつもりでいます。 だから4コマ目で「何がだめですか?」と聞き返すことになります。
この例では聞き返す形にしましたが、実際には 「仕事をしたのに怒られた」と受け取る人もいます。 やったつもりでいるので、叱られた理由のほうが分かりません。 お互いの誤解は、ここから始まります。
理由は2つあります
1. 汎用のテキストで学べる語彙は、限られている
「つぶす」「どかす」「どく」「配る」。 現場では毎日のように使う言葉ですが、汎用のテキストでは初中級から中級あたりで扱われることが多い言葉です。
入国前・入国後の講習で学ぶのは、ほとんどがテキストにある文法と語彙です。 生活の日本語も、十分とは言えません。 市販の教材はどんな学習者にも使えるように作られているので、 そのぶん業種ごとの作業の言葉までは入りません。
では、どのくらいの状態で現場に立つことになるのか。私の体感では、こうです。
その状態で、日本の職場で働きはじめます。
言いたいことは、少し言えます。ただ、 相手の言ったことが100%分かるレベルではありません。
この差が、現場では見えにくいところだと思っています。 少し話せている様子を見ると、聞き取れてもいるように見えます。 でも、話せることと、聞き取れることは別です。
試験に受かっていても同じです。N4に合格していることと、 倉庫で「つぶす」が分かることは、別の話になります。
2. 分からない言葉は、飛ばして聞いている
こちらのほうが、現場では重要だと思っています。
外国語を聞くとき、人は知らない言葉をそこで止めずに、聞き飛ばします。 そして、聞き取れた言葉だけをつなぎ合わせて、意味を組み立てます。
これは能力の問題ではありません。 私も、分からない外国語は聞き飛ばして、分かるところだけで理解しようとすることがよくあります。 外国語を聞く人が、自然にやっていることです。
| 実際の指示 | 本人に届いたもの |
|---|---|
| だんボール、つぶしてヒモでしばっといて | だんボール、(?)ヒモでしばる |
「だんボール」「ヒモ」「しばる」は分かります。 この3つがつながると、文として成立してしまいます。 意味の通る指示ができ上がるので、本人は「分かった」と思います。
分からないまま返事をしているのではありません。 分かったつもりになっているので、「大丈夫です」と答えます。 本人にとっては正直な返事です。
だから「分かりましたか」は効きません
ここが、いちばんお伝えしたいところです。
聞き飛ばしが起きているとき、本人の中では指示が完成しています。 その状態で「分かりましたか」と聞けば、答えは「はい」になります。 確認したつもりが、確認になっていません。
私も言ってしまいます。ただ、あれは「えーと」と同じで、 ほとんど意味のない問いかけです。間を埋めているだけで、何も確かめていません。
今日からできること
やめることは、ひとつだけです。
代わりに何をするかは、相手によって変わります。
話すのが得意な人には ── 手順を言ってもらう
「じゃあ、何をしますか?」
「はい、ヒモでしばります」
→ この時点で、つぶす工程が抜けていると分かります
かかる時間は10秒ほどです。作業が終わってからやり直すより、ずっと早く済みます。 抜けているところがその場で見えるので、そこだけ、もう一度伝えればいい。 叱る必要も、説明をやり直す必要もありません。
まだ話すのが難しい人には ── 見せる、やってもらう
言葉でのやりとりがまだ難しい段階なら、 言葉で確認することにこだわらないほうが早いです。
- 先に、やって見せる。できあがりを1つ作って見せる
- 一通りやってもらって、その場で見る
どちらも、言葉が足りなくても確認になります。 とくに最初の1回は、言って聞かせるより、見せたほうが確実です。
大事なのは、方法よりも 「はい」以外の反応で確かめるということです。 言ってもらう、やって見せる、やってもらう。どれでも構いません。
ただし、確認は本人にも練習が要ります
ここまでは、伝える側の話でした。ただ、もう一方の側も考えておく必要があります。
分かったつもりのことを、作業に入る前に確認する。 これができる新入社員の若いスタッフが、どれだけいるでしょうか。
日本語の問題ではありません。 「分からなかったら聞いてください」と言われて、その場で聞き返せる人のほうが少ない。 まして外国語で働いているのであれば、なおさらです。
つまり、確認すること自体が、身につけていくものだということです。 確認のしかたを知って、練習して、習慣になるまで繰り返す。 そこまで来ると、こちらから毎回「何をしますか」と聞かなくても、 本人のほうから確認が返ってくるようになります。
伝える側の10秒は、今日から始められます。 本人の側の習慣は、時間をかけて育てていくものです。両方あって、噛み合います。
誤解が積み重なる前に
一度や二度なら、やり直せば済みます。ただ、これが続くとどうなるか。
ご担当者の側には「何度言っても直らない」が積み重なっていきます。 本人の側には「仕事をしたのに怒られた」が積み重なっていきます。 どちらも相手の姿勢の問題に見えてきて、やがて声をかけること自体が減っていきます。
ここまで来ると、もう言葉の問題ではなくなります。
ただ、始まりは「つぶして」のひと言が届いていなかった、それだけということがあります。 届いていないところが分かれば、そこを教えれば済みます。 現場で使う言葉は数が限られているので、覚えれば終わります。
「何をしますか」と言わせる10秒は、そのための時間です。
覚えたあとのこと
ひとつ、書いておきたいことがあります。 現場の言葉を覚えたスタッフは、すごく誇らしげに教室で話してくれます。
「『これ、配って』って言われたんだけど、はじめは分からなかった。
でも、みんなに一つずつあげることだって分かりました」
オンラインの画面越しでも、その日はモチベーションが上がっているのが伝わってきます。
言葉は、伝えたい、理解したいという思いです。
自分が成長できたこと、そして後輩が成長したことを、お互いに喜べる。 そんな関係が作れるといいなと思いながら、教えています。